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2020年4月10日

桜@朝倉・秋月城址

さて、せっかく天気も上々なんで コロナ騒動の渦中にあってあまり人気が多いところに出向くのも後ろ髪引かれ隊&後ろ指さされ組なわけだが、やはりこの季節 桜の一つでも愛でておきたいところよのぅ・・・



・・・と、いうわけでやって来たのは朝倉市の秋月城址

甘木の中心市街地から北へ7km。

 秋月は、標高約860m(859.5m)古処山の麓の町で三方を山で囲まれ、南に開けた町です。地理的に攻めにくく、守りやすい盆地にあります。
 中世に秋月氏が古処山に山城を築き、秋月氏16代、近世になって黒田氏が12代と城下町としての歴史は大変古く、現在の街並みは黒田氏によってつくられました。

 天正15年(1587)戦国時代豊臣秀吉の九州征伐の際、秋月種実は徹底抗戦を決めます。重臣の恵利内蔵助暢尭(えりくらのすけのぶたか)は秀吉軍の強大さから勝ち目がないと和睦を進めますが聞き入れられず、家族もろとも死を持って止めようとしました。その場所に記念碑が建っています。(恵利暢尭殉節碑)

 明治までは城下町として賑わっていたのですが、秋月の乱で武家の没落と主要幹線から離れた立地が近代化や開発から取り残され、結果として、城下町の姿は残りました。

 国の重要伝統的建造物群保存地区は全国では117地区、その中で城下町は4地区あり(平成29年11月28日現在)、町全体が指定されているのが、秋月の特長です。
 町割り、屋敷割り、道路網と水路網、城館跡、武家屋敷、町屋の城下町の様子が周辺の自然景観、田園景観と調和し、歴史的風致となっています。(朝倉市ホームページより丸写し)


・・・秋月に来たのは初めてじゃないんだが、なぜかブログ内の過去記事検索しても見つからないな。ネタにしなかったのかな?



城跡は秋月中学校になっていて城そのものは無いんだが 城下町全体が重要伝統的建造物群保存地域になっている。

ま、今回はそんなに時間もないから長屋門、垂裕神社に至る「杉の馬場」を往復しただけ。この杉の馬場は桜並木になっていることは知っていたんで 今回の訪問となったわけじゃ。





しかし外出自粛の雰囲気があるご時世だからそんなに人はいないだろうと思ったが やっぱりそれなりに居るもんだな、観光客・・・並木沿いの屋台も結構出ているし。

ただ、やはり8日の非常事態宣言発令後はそんなに人も来ないんじゃないかな?知らんけど。





で、こちらが馬場の果てにある垂裕神社(すいようじんじゃ)



たぶん何が書かれているか画像が小さすぎて読めないだろうからWikiの説明を転記すると

安政6年(1859年)、秋月藩第10代藩主黒田長元が初代藩主長興の200周忌を迎えるにあたり、その功績を記念するため秋月八幡宮宮司宮永保親に命じて京都の吉田家に神号授与を申請。吉田家より『垂裕明神』の神号を与えられ、神霊を八幡宮相殿に祀ったのが始まりである。
元治元年(1864年)八幡宮から秋月城内の仮御殿に移し祀る。
その後、明治5年(1872年)から3年がかりで現在地に社殿を建設。明治13年(1880年)に秋月城大手門(通称:黒門)を境内に移築。なお、社殿の建設工事及び境内の整備は旧秋月藩士達が中心となって実施したため、参道の石段は「士族坂(さむらいざか)」とも呼ばれる。
昭和22年(1947年)、歴代藩主及びその夫人・公子、島原の乱~太平洋戦争の戦死者を合祀。」



緑がまぶしい参道石畳。このあたりは全部モミジなんで 紅葉のシーズンはまた見事なんだろうな。
ちなみに大手門(黒門)が秋月観光のシンボルらしいが なぜか画像を撮ってないぞ・・・(・ω・)



こちらが垂裕神社。なぜか遠景の画像しかないんだが・・・



梅園公園をぐるっと回って今回の散策も終了じゃ。



・・・濃厚接触しているアベックが羨ましいのぅ (つД`)


今年は桜もあまり見れなかった、という人もいるだろうが、ソロおっさんの散策の様子で良ければご覧くだされ・・・

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