2014年12月18日
羅漢寺
羅漢寺は中津市の本耶馬溪エリアにある曹洞宗の寺院で 日本三大五百羅漢の一つ。
以下 羅漢寺HPよりの丸写しコピーなんだが、
六百四十五年、孝徳天皇の大化元年にインドより法道仙人(ほうどうせんにん)が渡来されました。
この地に霊気を感じた、法道仙人は地形が釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ:お釈迦様)の聖跡である 耆闍崛山(ぎしゃくつせん)に良く似ていることからこの洞中に滞在しました。
去るに当たって念持仏として奉持された金銅仏一体を残しました。これが羅漢寺の起源だと言われています。
平安時代には、山岳仏教の霊地として天台宗の時期もあったようです。
その後、後醍醐天皇の延元(えんげん)二年(1337年)には、臨済宗祖の円龕昭覚(えんがんしょうかく)が訪れました。
この昭覚が十六羅漢の画像を描いて洞窟のなかに掲げたことから、羅漢寺と呼ばれるようになったと いわれています。
さらに、中国の逆流建順(ぎゃくりゅうけんじゅん)がこの地へやってきました。
建順は昭覚と協力して、羅漢寺に五百羅漢像や千体地蔵を安置しました。
このことを知った室町将軍の足利義満(あしかがよしみつ)も羅漢寺に帰依するようになりました。
また、この地を治めていた細川家からの支援もありました。
しかし、戦国時代、大友宗麟(おおともそうりん)が領内寺院を邪宗として焼き払いました。
羅漢寺もほとんどの伽藍(がらん)を焼失してしまいました。
以来臨済宗二十六代を経て、慶長五年(1600年)に、長州深川大寧寺より曹洞宗の鉄村玄さく(てつそんげんさく)が 入山され曹洞宗に改まってから現住職まで二十七代であります。
玄さくは、細川忠興(ただおき)の帰依や援助を受けて、羅漢寺の復興に努めました。
本寺は、昭和十八年に火災で焼失、現在の本堂は昭和四十四年に再建されたものです。
・・・と、いうことじゃ。
なにげに長門の大寧寺が絡んでいるんだな・・・
この羅漢寺付近、、、特に道の駅耶馬トピア、青の洞門あたりは 大分や熊本遠征のときなんかにはよく通る道なんだが、羅漢寺に来るのは10年前の日本一周旅行以来だなあ。
今回の目的は やっぱり紅葉なんだが、この仁王門より上のエリアは「世俗を持込んではダメ」ということで 写真撮影はご法度じゃ(´・ω・`)
それでも何枚かは何故か画像が有ったりするんだが、そのあたりは深くツッコまないで欲しいが、詳細な画像は羅漢寺HPとかでご覧下され・・・
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ちなみに ココには頂上のお寺までラクラク行けるようにリフトもあるが、貧乏人は黙って自分の足で登るのが良かろう。
基本的に山門より上はカメラ禁止なんで 徒歩参道の石段と山門をパスしたら写真撮影できるところはそんなに無いからな・・・
そんなこんなで羅漢寺本堂の入り口となる山門が見えてきたぞ。
ここで再度、念を押すように「カメラ持込み禁止」の張り紙があるんだが、ここからはさすがに坊さんがウロチョロしているんでカメラを構える度胸も無く 仕舞うことに・・・
ここの見どころは本堂はモチロン、五百羅漢だの千体地蔵だのいろいろあるが、 10年前にわしが五百羅漢に奉納したシャモジも さすがに消滅していたな・・・
千手観音は水子地蔵も併設されていて お母さんの懺悔の言葉が書かれていた大量のシャモジを見ると さすがにちょっと辛いものが・・(´□`)
とりあえず結縁地蔵には厚く手を合わせておいたが・・・
そうそう、今回は本堂の中の地獄巡りと庭園見学を別料金300円払って体験してきたぞ。
庭園では坊さんも闊歩してなかったんで こっそりカメラなどを出して撮影してみたが 紅葉そのものはやはり仁王門辺りのほうがフォトジェニックかな? まあ本堂の地獄めぐりの趣向はなかなか面白かったけど。
本堂エリアの一番奥にある自然石の石橋。 リフトで登ってくるとこれが山門となるから やはり「撮影禁止」の張り紙が掲げられているぞ。
一般的な参道以外に 修験道みたいな山歩きルートもあるらしく そちらを歩けば それはそれで色々なスポットが見て回れるようじゃ。まあ、普通はそこまではしないだろうけど・・・
あと、羅漢寺から青の洞門までのトレッキングルートとして旧参道なんかもしっかりしているから 時間が有ればチャレンジしてみても面白いかもな。
写真が残ってないから核心部分はうろ覚えの記憶しかなく 記事もなんかイイカゲンになってしまったが、なかなかオススメ度の高いスポットには違いあるまい。
なにげにオススメじゃ!!くはっ!
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